小泉八雲(こいずみやくも)という人物をご存知でしょうか。
出生名:パトリック・ラフカディオ・ハーン、日本帰化名:小泉八雲は1890年、アメリカの出版社の通信員として来日。その後日本に魅力を感じて、日本女性と結婚し帰化。現在日本に伝わる死に纏わる民話を「怪談」として文学作品へ昇格させ、世界へ広めた作家・日本研究家として有名です。
たまたま、調べたら今日がラフカディオ・ハーンの命日だったのですが、私自身、ダブリンで佐藤史郎さんによる朗読のイベントに参加するまでは小泉八雲のことを知りませんでした。
彼の軌跡がアイルランドと日本に接点があるため個人的に興味が湧いたこともあり、また、彼が献身的に日本のイメージアップに貢献したことは、意外に知らない人も多いのではないかと思い今回紹介してみることにしました✨
日本を訪れる殆どの欧米人がキリスト教の布教を目的に来日していた一方、ラフカディオ・ハーンはキリスト教に対して懐疑的で、日本文化研究にその生涯の殆どを費やしました。夏目漱石がその研究を絶賛するほどに。
「津波」が、「tsunami」という国際語になっていることは有名な話ですが、実は彼の著書「A LIVING GOD」(1897年)がきっかけという説もあります。安政南海地震(1854年)の後、津波の被害に遭った人々の救助で犠牲的精神を発揮する日本人の姿が描かれており、その中で日本語「津波」を「tsunami」と表記されています。
1850年、今から170年程前にギリシア西部の島で生まれたハーン。
日本名を名乗っていますが、出生名は
パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)。アイルランド人の父、ギリシャ人の母を持って生まれました。当時、アイルランドはイギリスの植民地だった為、小泉八雲はイギリス籍でした。
ハーンの幼少期は壮絶でした。幼い頃、母の死・父の再婚をきっかけに親族の大叔母の元で暮らしてきたハーン。
両親と過ごすことが殆どなく、厳格なクリスチャンの大叔母の元で育てられました。寄宿学校在学中、不慮の事故により左目を失明。そして、軍医だった父がインドから帰国途中に病死。さらには育ての親である大叔母も破産し、在学していた名門校ダラム大学を中退せざるを得なくなりました。
そんな満身創痍の中、ハーンは渡米。ジャーナリストとして経験を積みます。
紆余曲折ある中、彼は日本からニューオーリンズで開かれる博覧会のために派遣されていた明治政府の官僚・服部一三と出逢います。
この出会いがきっかけで、後にハーンはジャーナリストとして地位を築いた後、出版社の通信員として来日。その後、彼の憧れである「古事記」に記された「出雲神話」の舞台となった島根県で英語教師として働くことになります。
そして1896年、赴任先の教頭の娘である小泉節子と結婚し、日本国籍を取得します。最終的には、東京帝国大学・現東京大学で英文学講師、早稲田大学の講師を務め、三男一女を授かり、1904年、現在の新宿区大久保の土地で息を引き取りました。
まさにJカーブ、暗い幼少期からは考えられないほど最後は華々しい人生を送っていたようです。もっと詳しいお話をしたいところですが、今日のところはここまで。
彼の作品を、今度じっくり読んでみたいところです。